2015年3月8日日曜日

組織体の意思決定

最近は組織体の意思決定というものが、どのようにして行われるのか、何が変数で、どうしたら変えうるのか、ということに興味があります。あまりこの分野での学問的蓄積はないように思いますが…



というのも、30代も後半になってきて、自分の仕事スタイルを変えていかなきゃいけないんだろうなぁ、と思うこの頃。

20代の頃にやってたことは、今振り返ると所詮は丁稚奉公。自分では考えているつもりだったのですが、所詮組織の一番下位レイヤーのオペレーショナルな仕事が中心。

30代前半の頃は、お偉いさんに対して課題の整理と解決策を出すことが仕事になったのですが、とにかく「あるべき論」が中心で、決めるのは上の人たちの仕事、というふうに割り切っていました。

しかし、そういうスタイルにも最近疲れてきたというか、飽きてきたというか。効率よく仕事をするなら、社内組織を説得するのに大変なことはあまりやりたくない。組織の意思決定過程までも見据えて、あまり途中でゴツゴツぶつからずに、多少遠回りしても楽できるような道を選びたい。急がば回れ、そうすれば、関係者全員のストレスがたまらなくていいのではないかと。

もちろん、折衷案ばかり出してもしょうがないので、バランスが大事ということになるのですが…なんてことを考えていたら、防災の研究をしている友人が面白いことを言っていました。

「最近は防災も『実践学』ということにフォーカスが当たるようになっている。同じ手持ちのリソースがあるとしたら、どう使えば災害被害が減るのか、これはすでに研究が蓄積されている。問題はそれが一向に実現されないこと。

たとえば、発展途上国の小屋建築ならば、屋根はトタンより伝統的な葉っぱで建築した方が人的被害が少なくなる。トタンは台風とかで飛ばされれば危険だからだ。しかも、葉っぱの方が安い。しかし、経済力が上昇すると、やっぱりみんなトタンにしたがる。貧乏そうな葉っぱの小屋になんか住みたくない。

結局『見栄』といってしまえばそれまでなんだけど、そこをいかに動かせるかを考えないと、所詮は評論家レベルから脱却できない、というのが防災学者の課題意識ではある」


といっていて、なるほどなるほど、と頷くところ大でありました。

2015年3月4日水曜日

中世ヨーロッパの国家形成

ちょっと時間があったので、以前砂原先生に教えてもらったこちらの論文を読んでみました。

The Economic Origins of the Territorial State (2013 Abramson)




これがかなり面白くて、「従来では『ヨーロッパでは中世~近世にかけて火器の発達により大規模な資本集積が必要となり、これによって小さな政治体が駆逐されて領域国家が形成された』との理解は実態と正反対である」というものです。

これらの理解はイギリス、フランス、オランダ等のどちらかというと「はずれ値」のみに当てはまる議論で、その他の200以上の独立政治体の推移を俯瞰的にみれば、決してそうした現象は観察されない、としています。



上記グラフは国の平均面積をとったものです。上のチャートの赤線平均値でみると確かに国のサイズが大きくなっているようにみえるが、これは少数のはずれ値の影響であって、むしろほとんどの国のサイズは低下してきたというものです(2番目のグラフはログ換算したもの)。

さらに、下のチャートにあるように、数だけで言えば、むしろ中世はこうした政治プレイヤーが急激に増加した期間に相当し、1300年以降ゆっくりと低下したとあります。(1600年代の落ち込みは30年戦争の影響)。



Abramsonによれば、こうした共同体の数の増加の背景にあるのは、都市の経済力の向上であるとしています。こうした都市が経済力をつけ、人口を増やすことによって、独立した政治体の数が増加したとみています。

また、中世の軍備が「騎士=重装騎兵」から「歩兵」主力になることによって、軍事費のコストが下がり、都市でも独立を維持できるだけの軍備を備えることができたとしています。よくいわれてるような火器の登場は、国家形成にあまり影響を及ぼさなかったとしています。

なお、1800年以降ヨーロッパの政治体の数は急激に低下し50以下となるのですが、この原因については、ナポレオン戦争の影響、産業革命による経済力の飛躍的拡大と軍事力の巨大化、ナショナリズムの形成、等々が影響しており、さらなる研究が必要としています。



僕は歴史の本が好きなのですが、確かに「著者の興味ある事象だけを物語る」のではなくて、こうして俯瞰的に物事をみて、さらに定量的に検証するというアプローチはとても面白いですね。歴史人口学とかも好きな分野です。

余談ですが、Abramsonはまだ30代になったばかりのまさに「気鋭の若手学者」。このテーマで本も書くようですし、楽しみです。

2015年3月1日日曜日

大塚家具と家具業界

ご存知の通り、最近大塚家具の委任状闘争が盛り上がっております。


創業者の会長と長女の社長との間で、今後の経営体制を巡って対立が続いている家具販売大手「大塚家具」の大塚久美子社長は26日、都内で会見し、「会社が発展する段階で、どこかで創業者から離れなければならない」と述べ、創業者を外す形となっている次の経営体制案は妥当だと主張しました。(NHK:2月26日 18時20分)


単純な権力争いであれば、どうぞご随意にというところなのですが、ビジネス路線の違いということであれば、これは面白いと思いまして。軽くデスクトップリサーチをしてみました。

まずは大塚家具の長期業績から。


大塚家具はIRのHPで約20年にわたる詳細なデータを開示してくれていまして、この点は僕のような変人には大変ありがたい。さて、バブル直後に赤字に陥った大塚家具はその後急成長し、売上高では3倍以上、営業利益ベースで100億円に届こうかというレベルまで急成長します。この背景にいったい何があったのか?

最近公開されたこちらの東洋経済の記事によれば、大塚家具の躍進の理由は次のようにまとめられております。
  • 家具メーカーからの直接仕入れだったによるマージン削減。国内メーカーなら2~5割ほど安価になるし、輸入品なら半額になるケースも多い。 
  • 当時主流の「売れ残ったものは返品する」という委託販売方式から買い取り方式へ。
  • メーカー希望小売価格表示から実勢価格表示へ(同一品の業界最安値をアピール)。メーカーの反発を抑えるために勝久社長はお客の会員制度を導入。「会員限定で価格を示す」という苦肉の策。 
ここではこの分析が正しいとして、おそらくこの方式は国内メーカーから総スカンをくらい、成長のドライバになったのは輸入品だったのではないでしょうか。大塚家具の輸入品売上高構成比は成長期に合わせて急上昇します。


しかし、この順調な成長は2000年に入って急減速してしまいます。売上高は維持したものの、じわりじわりと営業利益を下げていき、リーマンショックの後に売り上げ高が急減したために、一気に利益が吹き飛んでしまいます。この背景には何があったのでしょうか?

まず、市場全体を見てみます。


これを見る限りにおいては、確かにリーマンショック後に最大2割程度落ち込んだものの、それだけでは大塚家具の急激な売り上げ減は説明できず、大塚家具は市場競争に負けてシェアを失っているのが売り上げ減の原因であると言えそうです。

家具メーカーで勢いのある企業といえば、ニトリとIKEAでしょう。この2社についてはググってみたら詳細に分析した論文(井村)が見つかりました。これによれば、ニトリとIKEA、どちらもSPAモデルで生産から販売まで一括管理し、デザインは本社で管理し、労務費の安い国で行うという合理的なサプライチェーンモデルを築いているということです。

こうした視点で見ると、大塚家具自身の分析として「まとめ買い需要の減少」をあげているのは、やや大丈夫かな、という気がします。
「家具市場は<住宅という箱の「備品」としてのインテリア>から<衣食とともに、「ライフスタイル」を構成する要素としてのインテリア>かつ<より自分らしいライフスタイルに向けて、少しずつ買い足すもの>に変遷」(大塚家具資料より)
僕なんかはシンプルに「デザイン性も悪く、価格も高い」と、商品力の問題として捉えたほうがよさそうに思います。なかなかそんなことは公式に自分たちの口では言えないことですが。

といっても、「今風デザインの家具の輸入を増やす」「ニトリやIKEAの真似をする」といった安易な方法論では勝つことはできないでしょう。ニトリにせよ、IKEAにしろ、デザイナーを育成し、海外で生産体制を整え、ロジスティクスを揃えるのはそう簡単にはいかなかったはずです。それこそ試行錯誤を繰り返し、10年単位の時間がかかって今の成功がある。

そういう意味では、勝久氏の他人のモノマネしてどうなるんだ。という、創業者社長の「原点」への強烈なこだわりも理解できるところです。

ちなみに、この間大塚家具は人員を1700名程度で維持しており、赤字になってもリストラを行わない、ある種の「良心的な企業」ということになるのでしょう。しかし、はっきりしていることは、現状のままでは現在の売り上げですら維持できず、従って雇用を維持することも、どこかの時点で不可能となります。

経営者は大変ですね。

2015年2月15日日曜日

プロパガンダ と曾野綾子氏のコラム

ネット界隈を騒がせているこの話題。

曽野氏コラムは「人種隔離容認」 南ア大使が産経に抗議
産経新聞社は14日、同紙の11日付朝刊に掲載された作家、曽野綾子氏のコラムについて、南アフリカのモハウ・ペコ駐日大使らから抗議を受けたことを明らかにした。アパルトヘイト(人種隔離)政策を容認する内容だとして、インターネット上で批判を浴び、海外メディアも報じていた。
朝日新聞 2015年2月14日23時00分

実は今読んでいる本に関連し、興味深いなと思ったので取り上げさせていただきました。



ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)
こちらはヒトラーが「演説家」として優れていた点はなんだったのか?ということを考察した本です。演説においてはヒトラーが「AではなくB」という対比法や「もしAならばB」という都合の良い仮定から結論を導く方式を多用したことを指摘しています。他にジェスチャーや発声法の訓練をした事実についても解説しています。

ヒトラーはかの「我が闘争」の中でこうも述べています。
  • プロパガンダが焦点を合わせるべきは専ら感情に他ならず、知能へは非常に限られた場合のみである
  • 大衆が親しめるものであること、そして対象とする者のなかでも最も程度の低い者の受容力に合わせること
  • 学術講義のような多面性を与えようとすることは誤り
  • プロパガンダとは大衆を絶え間なく自らの意のままにするためにある
  • 広範な大衆に向けたプロパガンダの根本原則とは、テーマ、考え、結論を絞り、執拗に繰り返せばよい
ヒトラーは大衆を徹底的に蔑視し、計算尽くでコントロールをしようし、そしてその計算通りに史上稀なる成功を収めたわけです。

実は、曾野綾子氏のコラムもこうした類似構造を指摘することができます。
「白人と違い黒人は大家族主義である」→「だから居住区を分離した」
「外国人は日本人と行動様式が違う」→「だから居住区を隔離すべき」

ここでは、まさに都合の良い仮定から結論を導き出すロジックが使用され、仮定においては白人はこういうものだ、黒人はこういうものだ、外国人とはこういうものだ、という単純化が行われております。

なお、上記の本ではこうしたプロパガンダ効果は政権掌握してまもなく消失し、大衆はヒトラーの演説に飽きたとされていますが、その頃は国家暴力を独占したナチスに逆らうことは実質的に不可能となっていたのでした。


ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書)

こちらはホロコースト=アウシュビッツというともすれば単純な図式に陥りがちな理解に対して、いかにナチスが組織的にジェノサイドを進めていったのか、またその過程でどのようなプレイヤーがどのような判断を下したのか、をまとめた本です。



読んでいるとひたすら暗くなる本ですが、人間が民族的偏見をもったときにどこまで残酷になれるのか、民族的偏見が広範に共有され、組織の内面規範となった時に何がおこるのか、ということを教えてくれます。


さて、個人的には「炎上」という現象はあまり好きではなく、曾野綾子氏の主張を「危険思想」として撲滅の対象とすべきである、という大合唱に同調するのは一抹のためらいがないとは言えないのですが…

しかしながら、こうした民族的な偏見の帰結には、大いなる悲劇が待っている可能性があることは声を大にして指摘したい。それは遠い過去の歴史ではなく、現在でも世界中で普遍的に起こっている事象なのです。そうした観点に基づいて、同氏の主張、および差別的思想や言説に対しては批難するものであり、「表現の自由」という錦の御旗を立てて、そうした可能性に目を向けようとしない産経新聞にもまた失望の意を禁じ得ません。

2015年2月14日土曜日

新聞の緩慢な衰退

こんな記事を見つけました。

中国新聞が4月で夕刊休刊 朝刊とセットの新媒体創刊
 中国新聞社(広島市)は12日、夕刊を4月末で休刊し、朝刊と同時に配達する日刊の新媒体「中国新聞SELECT(セレクト)」を5月1日、創刊すると発表した。同社夕刊は1924年から発行しているが、部数減により91年に及ぶ歴史に幕を下ろすことにした。
2015/02/12 20:43 【共同通信】

新聞が衰退メディアであることは誰の目にも明らかなわけではありまして、そうしたトレンドの中でこうした経営アクションがとられることは当然であるわけですが、常識的に考えてジャーナリズム機能の衰退は我々の社会にとって望ましいこととは言えません。


新聞が現代日本社会にとって必要不可欠なジャーナリズム機関なのか、ということはまた議論があるわけですが、ビッグプレイヤーであることは間違いないでしょう。

で、新聞社の現状がどんなものか気になって新聞協会のHPをみてみました。部数減はわかりきっていることなので割愛するとして、個人的にはそれが経営状況にどうインパクトを与えているかが気になるところです。

まず売上高ですが、リーマンショック後に広告収入が激減しているのが目を引きますね。一方で購読料収入はそこまで落ち込んでおらず、景気と連動しない底堅さを感じます。


売上が落ちているならば、当然コストカットをしなくてはならず、その代表が人件費となります。しかし、人員削減にも濃淡がありまして、なるべく記者の数は減らさずにその他部署の人員をこの10年間で1万人程度減らしていることがわかります。


現在から振り返れば、10年前の記者以外の従業員3万人って何やってたの?という疑問も湧くのですが、いずれにせよそうした人材は削減対象となってきました。コアファンクションを担う人員を優先しつつ、その他の人員を削減するのは至極当然のアクションと言えます。


個人的な印象としては購読料がある限りにおいて、簡単にはつぶれないのかな、という印象を受けました。もちろん人口減にはどう頑張っても抗えないわけでありまして、いずれは新聞社も生き残りのために地銀のように合併を選択するのでしょうか?

中央紙に吸収されるという論理的可能性もありますが、僕の印象では地方紙の中央紙に対するライバル意識はとても強く、そっちの方がもっとないような気がします。実際地銀もメガ銀行に吸収合併されるのは拒否して対等合併を選んでいるわけですし。

ただ、どちらかというと地方ごとの独占媒体である県紙よりも、代替メディアの存在する中央紙(朝日、毎日、読売、日経、産経)の方が経営はきついのかな、という気がしました。特に相対劣位にある毎日と産経。毎日は今年度上半期赤字ですし。


繰り返しになりますが、新聞の衰退自体はもはや避けられないと思いますので、経営者としてはいかに終わりを伸ばすか、という延命治療的なアクションが求められるのでしょう。ジャーナリズムの機能を残すために、経営の独立性を放棄する、という選択肢も検討せざるを得ないでしょう。

おそらく従業員から役員まで、組織内では大変に不人気で、従って困難な舵取りになるわけですが。

2015年2月12日木曜日

ベンチャー就職リスク考

最近個人的にはよく後輩の指導をするようになりまして、その中には早い段階で辞めて独立する後輩もおります。有名大学卒業生の就職人気では、それなりに新興企業ももてはやされているようですが、ある程度エスタブリッシュな企業に就職するメリットはやはり捨てがたいな、と改めて思った次第。


「大企業からベンチャーはいつでもいけるけど、ベンチャーから大企業には行けない」とか「企業の新卒教育は馬鹿にできない」という典型的な理由もあるのですが、ちょうど独立して二社目の会社を立ち上げた友人の社長さんが言っていた一言が印象的。

「ベンチャーしか経験のない人たちは発想のスケールが小さい」

僕は人事系の仕事もやっているので、社員の報酬設計、キャリアパス構築、育成、後継計画 etc.と携わります。社長から新入社員まで見ていると、「ビジネスにおける視座」のようなものは、どういったキャリアを歩んできたかに強く影響を受けると思われるのです。

一般的な意味での「価値観」というのは大学を出ることには固まっているかとは思いますが、「職業倫理」「お金の儲け方」に関する思考方法はやっぱり就職後に後天的に身につくものだと思います。だからこそ、ある程度銀行の人は銀行っぽくなり、商社の人は商社っぽくなる。

ちょうど僕の周りは10年選手なのですが、同世代と話しているとそうしたモノの見方はだいぶ固まってきている。よく言えば安定感がある、悪く言えば柔軟性が失われるといったところ。

だから、キャリア初期にどういう職に就くかというのは、単純なキャリアパス設計ということ以上に、その人のビジネス的な思考回路、課題の設定のフレームやソリューションの発想等々に強く影響を与えるように思います。

ベンチャーだけで働いていると、金額的にも、世の中に与えるインパクト的にも、小規模な仕事がメインにならざるを得ない。そういう仕事しかしていないと、どうしても特定領域の小幅な改善提案しかできなくなる「リスク」があるというのは、大いにありそうなことだと思います。

もちろん全ての人がそうだというわけではないですし、大企業でも「ちっちぇえな」という人はごまんといるので、確率の問題なんですけどね。

2015年2月4日水曜日

書評:労働時間の経済分析

労働時間の経済分析 超高齢社会の働き方を展望する

日経・経済図書文化賞を受賞したということで買っておいて年末から「積ん読」になっていたのですが、面白いデータ分析がたくさんはいっており、大変興味深かったです。

このうちいくつかご紹介。


1980年代は中小企業の方が大企業より労働時間が長かったが、2000年代に入ってから両者の差はほとんどない。日本の平均労働時間は低下をしてきたが、これは短時間労働者の増加によるもので、フルタイム雇用者の労働時間はほとんど変わっていない。

残業代なし管理職と、残業代あり被管理職の報酬や労働時間を比較したところ、平時は労働時間や時間あたり賃金の差はほとんどない。ただし、景気後退期には管理職の労働時間が長くなり、時間単価が低下する可能性が指摘できる。

労働時間に関する弾性値は極めて低く、賃金が高くもらえるのであればより長く働こう、低いのであれば短縮しようというメカニズムはほとんど働かない。

日本人のフルタイム雇用者の労働時間は国際比較においても長く、「より減らしたい」と考えている労働者の割合も高いため、「働きすぎ」と言っても差し支えない。一方で、日本人はそもそも「希望する労働時間」が長い。特に、長時間労働が「評価」される企業では希望労働時間が長い。

ただし、日本人も欧米赴任で周囲の環境が変われば、労働時間は顕著に短くなり生産性も上昇する。したがって、国民性などではなく長時間労働は環境の問題と考えられる。(赴任者曰く 日本では資料の作成や上司に対する気配りが過大「社内会議資料のフォントや改行の長さなどの調整は付加価値につながらないのに上司へのサービスとして手厚く行う風習があった」)

長時間労働は、労働市場特性も影響する。勤続年数が長い企業は長時間残業となる傾向がある。企業の固定的投下資本が大きく、人員増減によって需要変動に対応することができないため、あらかじめ採用人数を絞り、残業させておく必要があるからである。


昨今「ブラック企業」「ホワイトカラーエグゼンプション」等のトピックスにより労働時間と報酬、従業員の健康に関する関心が高まっていますが、上記のデータを見る限り、賛成反対双方が不毛な議論をしているようにも思えてきます。

例えばホワイトカラーエグゼンプションにしても、労働側の「残業代なしタダ働き制度=長時間残業常態化」や、使用者側の「効率的な働き方の浸透=生産性向上」のどちらもあまり起こりそうにない話だと予想されます。

著者が言うように、事実の分析に基づいた、生産的な議論をしたいものです。