2015年12月30日水曜日

待機児童の状況

うちの家庭は共働きです。となれば、当然のことながら今後数年間は「働いている間に子供を預かってくれるところ」が必要になります。


もちろん、そのために存在するのが保育園なのですが…周知のように保育園はニーズに対して圧倒的にキャパが足りません。2015年現在、厚労省によれば日本全国で約2万人の待機児童がいるとされています(リンク先PDF)。

ただ、この8年間で保育所のキャパが20万人分も増加したにもかかわらず、待機児童数は約2万人程度で変わっておりません。「待機児童が2万人だから、2万人キャパを増やせば良い」とはならず、潜在的にはこの数をはるかに上回る待機児童が存在すると言われております。




ちょっと古いデータですが、就学前児童の状況は以下の通りです。この図を見る限り、まだまだ需要はありそうです(出所:厚生労働省HP)。例えば、単純に1、2歳児の保育園利用率が倍になりうるとしたら、潜在的な待機児童数は約70万人いることになります。


「うちの施設は定員100人で、ただいまお待ちの方は500人です」と言われたら、多くの人が利用を断念するのではないでしょうか。これが現在の実態です。

保育園のキャパを増やすにはもちろん財源が必要です。正直、20年間一度も稼動してない「もんじゅ」とやらに1兆円ものお金を使うぐらいだったら、保育園整備に税金使ってればよかったのに…

ここまでは概論として多くの方がご存知だと思いますが、次はネットだけではわからない、実際の保育園探しの事情を。

2015年12月28日月曜日

子育て開始

遅まきながら、来年結婚し、かつ子供が生まれることになりました。なお、これは色んなところで言っておるのですが、でき婚ではありません。念のため。



妻には働き続けて欲しいと思っていますので、「保育園を探さなきゃなー」と漠然と考えていたのですが、いざ実際に情報収集をし始めると、これが予想通りというか、予想以上にシビアな状況のようです。

そもそもが、自治体HPの「情報」が大変にわかりにくい。

例えば、これだけ世の中で「待機児童」ということが問題になっているのですから、これから子供を持つ夫婦がまず知りたいのは「保育園に入れるのか、どれくらい難しいのか」ということではないでしょうか。

しかし、意図的なのか、そうでないのか、そのことに関しては品川区のサイトは沈黙しています(待機児童状況の表はありますが)。もちろん、こういうご時世ですので、いろんなサイトがあって、ブログ等での体験記もいっぱいあるのですが、「〜のようです」という伝聞情報ばかりなので、やはり運営元からの信頼できる情報を入手したい。

結局のところ、こんな時代なのに、自治体に電話して直接聞かないと本当に知りたいことはよく分からないのです。

私はもともと世代的にこの手の話に関心のある方だと思っていたのですが、それでもやはりやってみないとわからないことが多い。特に、情報収集一つとっても伝統的な「口コミ」に多くの人が頼っている状況はちょっとおかしいのではないでしょうか。

そもそも少子化は高齢化と対で、日本における最大の社会的イシューと言っても過言ではありません。こうした状況に対して、まずもって正確な情報発信がなされていないことに大きな問題があるなぁ、という認識を抱きました。

個人のブログでできることはたかが知れていますが、草の根の情報発信が多少なりとも子育てしやすい社会環境の醸成に役立てればということで、折に触れて情報発信したいと思います。

2015年12月24日木曜日

書評:新・犯罪論

Twitterでオススメされていた本で、期待にたがわず面白い本でした。専門知識がなくてもスラスラ読めます。


新・犯罪論 ―「犯罪減少社会」でこれからすべきこと

本書で強調されているのは、統計調査の特性と限界を正しく理解し、社会の実相をなるべく正確に理解すること。その上で、社会問題に対してどのような解決策がありうるのか、考えることとされています。

とりわけ一般的に「犯罪」に対する理解は驚くほど間違っていることが強調されています。以下サマリーです。

1 犯罪は減り続けている
このブログを訪問される方々にとっては半ば常識かもしれませんが、近年日本の犯罪は減り続けています。一つは年齢構成の影響で、世界中どこの国でも、犯罪は若年層が起こす確率が高く、したがって少子化により犯罪数は減っていきます。

さらに、年齢別に人口10万人あたりで見た犯罪発生率も、1970年代と比べて2005年は半分以下になっています。皮肉にも、日本で犯罪が最も多発していたのは、古き良き時代とされがちな「三丁目の夕日」や「隣のトトロ」の時代です。

なお、一方で内閣府の世論調査では約8割が「治安は悪化している」と答えており、このギャップはごく稀に起こる凶悪犯罪をセンセーショナルに報じるマスメディアあり方に問題があるのではないかと見られています。

2 犯罪を防ぐ方法
近年では監視カメラがいたるところに見られるようになりました。しかし、監視カメラは防犯という意味からはほとんど効果がないことがわかっています。他方、明確に防犯に効果があるのは、街灯設置です。プライバシーの問題を発生させることなく、コストも安いということであれば、どちらの予算を優先させるかは明らかではないでしょうか。

3 外国人犯罪の実態
大前提として、外国人犯罪者の構成比はとても小さく、全犯罪者のうちの約4%に過ぎません。さらにそのうちの大部分が、蛇頭などのブローカーに数百万の借金を背負い、雇用が不安定な底辺労働の末に困窮して窃盗や強盗の見張りを務めてしまう人々です。

4 受刑者の実態
「刑務所に入っていた」というと何やら恐ろしげなイメージがありますが、実態は約3割が窃盗でそのうち大部分は少額のもの、3割が覚せい剤依存症、約1割が無銭飲食や無賃乗車ということで、暴力犯罪者ではない。しかも、そのうち約25%がIQ70未満。万引きの高齢受刑者がどんどん増えているというのが実態です。

5 コストの問題
当たり前ですが、裁判や収監にもコストがかかります。スーパーで300円のパンを万引きした人が、勾留されて実刑になるまでに約130万円、刑務所に一年間入れば約300万円のコストがかかるとされています。


こうした基本的な情報の上に立ち、犯罪をさらに減らし、安心な社会を築くとすれば我々は何をなすべきでしょうか。少なくとも、厳罰化を推進し、こうした人々を排除、隔離し刑務所の収容期間を増やすことは、コストばかりがかかって、あまり意味がないように私には思われます。

綺麗事に聞こえるかもしれませんが、やはり福祉政策を充実させて、社会的弱者の人たちが包摂されるような社会をいかに築けるか、そうした方向性で議論することの方がよほど生産的なように、私には思われます。

2015年10月19日月曜日

マンション購入必読書?

ブログの方ではご無沙汰しております。やっぱり仕事でもないとなかなかまとまった文章って書く機会ないですね…本日は代休を取得しておりますので、ちょっと前から書こうと思っていたテーマをやっつけたいと思います。

あ、いきなり脱線しますが、最近仕事では「効率良良い働き方」「ワークスタイルの改革」というのがテーマになっておりまして、最近人事院のお偉いさんとも会話したんですが、日本人の働き方ってここ10年で確実に変わってきてると思うんですよね。より欧米型に近づいたというか。

少なくとも「男性正社員は長時間労働が当たり前である」から「プライベート時間を確保できないのはブラック企業である」と変わってきつつある。少なくとも僕が勤め始めた15年ぐらい前は男性が育児休暇とるなんてまだまだ珍しかったのが、今は同期も普通にとってますからねぇ。

さて、本題に戻りますと、最近Twitterで不動産クラスタの方々をフォローしまして、そこで必読書とあげられていたのが、

ニュータウンは黄昏れて (新潮文庫)

バブル期にニュータウンでマンションを高値づかみし、そのせいで色々な苦労をすることになった一家が主人公です。小説としても大変面白い。

やっぱり不動産購入は人生でもっとも高い買い物ですから、そこで失敗すると一生その重荷を背負うことになるという、とても売買に慎重になれる本です。「住宅ローンで無理しちゃいかんよね」というのが実際の購入検討者としてはTake Awayでしょうか。

さて、そうしてまず「心構え」をつくったところで、実際のマンション購入について、実践的なアドバイスを得られるのが、次の本です。

専門家は絶対に教えてくれない! 本当に役立つマンション購入術 (廣済堂新書)

これはのらえもんというブロガーの方が書かれた本なのですが、現代のマンション購入検討者にとって必要な情報がコンパクトにまとまっています。マンション購入を検討していた時に本を何冊か読んだのですが、こちらの新書が過不足なくて良いと思いますね。

ご本人は今人気の湾岸エリアのタワマン在住ということで、都内在住のそこらへんでんで検討されている方はまさに必読と言えるのではないでしょうか。

ちなみに、個人的にはそれこそ湾岸のタワマンの30年後はまさに今のニュータウンになるんじゃないの?という懸念が拭えませんが…。

どうなんでしょうね?郊外住宅と違って需要が減らなければ新規住人が入り続けるとは思うのですが。そういう意味では、湾岸はまだしも、武蔵小杉の高層マンションが人気なのはちょっと私の理解を超えてますね。

さて、最後に不動産営業をテーマにした小説。

狭小邸宅 (集英社文庫)

売れない不動産の営業マンが、社内のパワハラに耐えて成長していくストーリーです。不動産クラスタには受けてましたが、まぁ、内輪ネタですね。

正直私の会社も強烈な体育会系カルチャーを持ってますので、そういう意味ではニヤニヤしながら読みましたが、そうでなければあまり面白くないかも。

てな感じで、ご興味のある方は秋の読書にオススメです。

2015年5月14日木曜日

リーダーシップ考

「リーダーシップ」という概念は、欧米のエリート教育の中では中心的な位置にあるような印象を受けます。どこのビジネススクールでも、リーダーシップというのは必修授業の構成要素です。

翻って、少なくとも大学までの日本の高等教育ではその手の教育が為されたという記憶はありません。「欧米ではこう、日本ではこう」と過度に単純化することは戒めたいところですが、日本企業に務めた個人的な経験では、然るべき地位にいる方々がリーダーシップを一向に発揮せず、失望させられた経験が少なくないというのは、偽らざるところです。

こうした状況を踏まえ、日本人MBA卒業生の間では「欧米企業ではリーダー人材は抜擢され、早くからマネジメントの経験を積めるのに、日本企業ではそうしたことは行われない」というのが定番の嘆きであります。確かに、客観的な事実として日本の大企業では40歳ぐらいまで管理職になることはないので、こうした昇進の遅さが、リーダー育成にとってネガティブファクターであることは十分にありうる、と思います。

ただ、こうした「遅い昇進」は、日本企業の特徴である「新卒一括採用慣行」「ジョブセキュリティの高さ」と裏表の関係にあります。というのは、出世競争に負けた側を簡単にクビに出来ないので、昇進をなるべく遅らせて、相互に競わせるのが合理的な行動になるのです。ので、僕自身はMBA卒業生の嘆きには簡単に同調できないのですが。

いずれにせよ、日本型組織の運営において、最もボトルネックとなるのはこうした「リーダー人材の不足」であることは珍しくないだろう、というのが個人的な肌感覚です。

僕が最近考えているのは、比較的若いうちからリーダーとしての経験を積みたいのであれば、NPOなりの社外活動に積極的に関わるのがよいのではないか、ということです。

およそ仕事であれば、従業員は給与をもらう対価として「業務命令」に服する必要があります。もちろん気に入らない上司の仕事をサボタージュするというのは一般的なことですが、それとて限界があります。つまり、どんなダメなオジさんであっても、一定のポストに就けばある程度の権限をふるうことが可能です。

一方で、NPOのようなボランティア組織では、構成員がそうした義務を負っていません。組織がワークするかどうかは、かなりのところ属人的なリーダーシップにかかってきます。「お金や契約によらず人を動かさなければならない」というのは、いかにその趣旨に賛同して集まった人たちであれ、なかなか難しいことです。

構成員のモチベーションはなんなのか、どんなスキルを持っているのか、キャパシティはどの程度あるのか、信頼できる人材か。どういう言い方をしたらよいのか、プライドメンテナンスなども必要になってくるでしょう。原始共同体の政治というのは、こうした形で行われたのかもしれませんね。そうした場で、リーダーとして学べることは多いのではないかと思います。

もうひとつ重要なのは、「リーダーがいなければ、組織は動かない」ということを現実として理解できます。これは僕も震災のボランティアに行ったときに実感したのですが、「何かを震災被害者のサポートをしたい」という人が100人集まったところで、それだけでは実際に何もできないんですよね。「あなたはこれをやってください」というディレクションをする人がいなければ。

最後に、アメリカみたいにCEOが莫大な報酬を得るならともかく、一般的にはリーダーというのは割に合わない立場です。時間なのか、お金なのか、何らかの負担を引き受ける必要があります。日本人のメンタリティとしては「リーダーに憧れる」というのはあまりないかもしれませんが、一般的にはフォロワーの立場の方が楽なのは間違いありません。

もっとも、リーダーがそうした自己犠牲を払っているからこそ、構成員の尊敬を集め「この人についていこう」という本来的なリーダーシップが発生するものかもしれませんね。



2015年4月18日土曜日

書評:民主主義の条件

僕が敬愛してやまない(?)、友人でもある砂原先生の本です。


民主主義の条件

内容は主に政党及び選挙を中心に、制度設計がどのように個々のアクターのアクションに影響を及ぼすのか、についてわかりやすく書かれています。高校生や大学生の政治学の入門書としてよい本ではないでしょうか。

論の進め方も堅苦しいものではなく、

「だいたい人口10万人くらいの市でも1500票程度とれば当選できることになります。人口の1%程度ですから、たとえば市の商工会とか農協とか自治体とか、いくつかの団体をまとめれば難しくない数と言えます。 …どれだけひどい議員であっても、「選挙で落選させる」という脅しが効きにくくなります。」

といった具合です。

無党派の多さに現れているように、今の日本の政治状況に満足している国民はそれほど多くはないでしょう。ただ、その原因を紐解いた言説では、「政治家が昔に比べて小粒になった」「政治家は国民自身のレベルを反映したものだからだから、しょうがない」といった具合に、「国民一般の民度」に帰責させてしまうものが多いように思います。

「民度」が問題だとすれば、その解決は容易ではありません。せいぜい「学校教育を頑張ろう」ということぐらいしか、やれることはないのではないでしょうか。もちろん本当に民度が原因ということもあるかもしれませんが、率直に申し上げれば、そうした論評はあまり現実の状況の改善には役に立たないように思います。

本書では、制度を変えることによって、政治家が特殊な団体の利益代表となってしまう状況を変え、より国民の納得性が向上されるやり方がある、と主張しています。制度を変えるというのは具体的で実現可能な話であり、僕はとても生産的な提言だと思います。

組織人の立場から感想を述べると、これは大組織の中で意思決定に関与する人々にもインサイトを与えるのではないでしょうか。

およそ組織人であれば、時にはその組織の長であったとしても、自己の考えへの賛同者を集めなければ自らの望む事業はなしえません。その面倒なプロセスを経るからこそ、個人では為し得ない事業が可能になります。様々なインセンティブを持つ多数の関与者の支持を得るにはどうしたらよいのか、そうした視座を与えてくれるように思います。


最後に、Kindleで読めるはよいですね!整理しても整理しても、拙宅の兎小屋では本の保存場所に困りますので、全ての新刊がマルチプラットフォームで出版されることを切に願います。


P.S. この本には谷口氏がかっこいい書評を書かれています。

以前、ある研究会で聞いた「権力の過剰と希少」という話があった。法学者は国法の頂点たる憲法自体が権力制限規範であることからも明らかなように、いかにして過剰になりがちな権力を制限するかに注目するが、これに対して政治学者は権力はむしろ希少で、いかにしてそれを育むかに関心を持つ、というものである。

 本書はこの点、希少な資源としての権力(多数派形成、政党など)の育成を選挙という制度知の観点からじっくりと分かりやすく考察するもので、上記の意味での政治学の「王道」を行く。

2015年4月3日金曜日

新入社員研修

気づいてみれば、新入社員研修を行う年次になってました。


いやー、月日のたつのは早いものですね…と自分でも思うかなぁ、と考えていたのですが、そんな感慨もなく、普通に「講師」してきました。もっとインタラクティブにしたいとは思ったのですが、何分反応も薄く、単なる「座学」になってしまったのが反省点。数百人相手でも盛り上がるプレゼンをやられるようになるが、僕の次の目標でしょうか。

なお、最後に「講師」としてではなく、「会社の先輩」という個人的観点から以下のようなアドバイスをしたのですが、意図がうまく伝わったか。


・3年後になれば、皆さんのうちの1割は確実にこのグループにいない。

・人によっては「辞めたやつは裏切り者」という考え方の人たちもいるが、自分はそうは考えない。仕事とは、会社に対しては役務を提供し、報酬を得る労働契約である。

・したがって、報酬に不満がある、人間関係がうまくいかない、などの理由で辞めるのはかまわないと思うし、逆に会社から「あなたは必要ない」と言われる可能性もある。

・そもそも皆さんが所属する会社が将来存続しているかどうかの保証すらない。業績は安定しているが、将来はわからないし、合併などの選択肢も当然ありうる。

・とはいえ、「金の切れ目が縁の切れ目」とだけ考えていればよいかといえば、それは違うと思われる。自分も転職活動をしたことがあるが、その経験からもそう思う。

・この会社でなければできない仕事、この会社でなければ働けない人たち、この会社でなければ得られない誇り、そうしたものがあればこそ、皆さんは仕事をしていて充実感を得られると思う。

・それは社長が一人頑張るというという類の話ではなく、皆さんを含めて社員全員が貢献すべきことだと考えている。自分も常にそうした視点で仕事をし、この会社をよりよくしたいと考えている。

・同じ志を持つであろう皆さんと一緒に仕事をできる日を楽しみにしています。


一応前向きな話をしたつもりなんですが、ちょっと過激だったかなぁ。来年人事から「新入社員に辞めてもいいなんて話をするなんて、とんでもないやつだ。あいつは勘弁してくれ」って言わるかしら。とはいえ、キレイごとだけ言ってもしょうがないし。

2015年3月8日日曜日

組織体の意思決定

最近は組織体の意思決定というものが、どのようにして行われるのか、何が変数で、どうしたら変えうるのか、ということに興味があります。あまりこの分野での学問的蓄積はないように思いますが…



というのも、30代も後半になってきて、自分の仕事スタイルを変えていかなきゃいけないんだろうなぁ、と思うこの頃。

20代の頃にやってたことは、今振り返ると所詮は丁稚奉公。自分では考えているつもりだったのですが、所詮組織の一番下位レイヤーのオペレーショナルな仕事が中心。

30代前半の頃は、お偉いさんに対して課題の整理と解決策を出すことが仕事になったのですが、とにかく「あるべき論」が中心で、決めるのは上の人たちの仕事、というふうに割り切っていました。

しかし、そういうスタイルにも最近疲れてきたというか、飽きてきたというか。効率よく仕事をするなら、社内組織を説得するのに大変なことはあまりやりたくない。組織の意思決定過程までも見据えて、あまり途中でゴツゴツぶつからずに、多少遠回りしても楽できるような道を選びたい。急がば回れ、そうすれば、関係者全員のストレスがたまらなくていいのではないかと。

もちろん、折衷案ばかり出してもしょうがないので、バランスが大事ということになるのですが…なんてことを考えていたら、防災の研究をしている友人が面白いことを言っていました。

「最近は防災も『実践学』ということにフォーカスが当たるようになっている。同じ手持ちのリソースがあるとしたら、どう使えば災害被害が減るのか、これはすでに研究が蓄積されている。問題はそれが一向に実現されないこと。

たとえば、発展途上国の小屋建築ならば、屋根はトタンより伝統的な葉っぱで建築した方が人的被害が少なくなる。トタンは台風とかで飛ばされれば危険だからだ。しかも、葉っぱの方が安い。しかし、経済力が上昇すると、やっぱりみんなトタンにしたがる。貧乏そうな葉っぱの小屋になんか住みたくない。

結局『見栄』といってしまえばそれまでなんだけど、そこをいかに動かせるかを考えないと、所詮は評論家レベルから脱却できない、というのが防災学者の課題意識ではある」


といっていて、なるほどなるほど、と頷くところ大でありました。

2015年3月4日水曜日

中世ヨーロッパの国家形成

ちょっと時間があったので、以前砂原先生に教えてもらったこちらの論文を読んでみました。

The Economic Origins of the Territorial State (2013 Abramson)




これがかなり面白くて、「従来では『ヨーロッパでは中世~近世にかけて火器の発達により大規模な資本集積が必要となり、これによって小さな政治体が駆逐されて領域国家が形成された』との理解は実態と正反対である」というものです。

これらの理解はイギリス、フランス、オランダ等のどちらかというと「はずれ値」のみに当てはまる議論で、その他の200以上の独立政治体の推移を俯瞰的にみれば、決してそうした現象は観察されない、としています。



上記グラフは国の平均面積をとったものです。上のチャートの赤線平均値でみると確かに国のサイズが大きくなっているようにみえるが、これは少数のはずれ値の影響であって、むしろほとんどの国のサイズは低下してきたというものです(2番目のグラフはログ換算したもの)。

さらに、下のチャートにあるように、数だけで言えば、むしろ中世はこうした政治プレイヤーが急激に増加した期間に相当し、1300年以降ゆっくりと低下したとあります。(1600年代の落ち込みは30年戦争の影響)。



Abramsonによれば、こうした共同体の数の増加の背景にあるのは、都市の経済力の向上であるとしています。こうした都市が経済力をつけ、人口を増やすことによって、独立した政治体の数が増加したとみています。

また、中世の軍備が「騎士=重装騎兵」から「歩兵」主力になることによって、軍事費のコストが下がり、都市でも独立を維持できるだけの軍備を備えることができたとしています。よくいわれてるような火器の登場は、国家形成にあまり影響を及ぼさなかったとしています。

なお、1800年以降ヨーロッパの政治体の数は急激に低下し50以下となるのですが、この原因については、ナポレオン戦争の影響、産業革命による経済力の飛躍的拡大と軍事力の巨大化、ナショナリズムの形成、等々が影響しており、さらなる研究が必要としています。



僕は歴史の本が好きなのですが、確かに「著者の興味ある事象だけを物語る」のではなくて、こうして俯瞰的に物事をみて、さらに定量的に検証するというアプローチはとても面白いですね。歴史人口学とかも好きな分野です。

余談ですが、Abramsonはまだ30代になったばかりのまさに「気鋭の若手学者」。このテーマで本も書くようですし、楽しみです。

2015年3月1日日曜日

大塚家具と家具業界

ご存知の通り、最近大塚家具の委任状闘争が盛り上がっております。


創業者の会長と長女の社長との間で、今後の経営体制を巡って対立が続いている家具販売大手「大塚家具」の大塚久美子社長は26日、都内で会見し、「会社が発展する段階で、どこかで創業者から離れなければならない」と述べ、創業者を外す形となっている次の経営体制案は妥当だと主張しました。(NHK:2月26日 18時20分)


単純な権力争いであれば、どうぞご随意にというところなのですが、ビジネス路線の違いということであれば、これは面白いと思いまして。軽くデスクトップリサーチをしてみました。

まずは大塚家具の長期業績から。


大塚家具はIRのHPで約20年にわたる詳細なデータを開示してくれていまして、この点は僕のような変人には大変ありがたい。さて、バブル直後に赤字に陥った大塚家具はその後急成長し、売上高では3倍以上、営業利益ベースで100億円に届こうかというレベルまで急成長します。この背景にいったい何があったのか?

最近公開されたこちらの東洋経済の記事によれば、大塚家具の躍進の理由は次のようにまとめられております。
  • 家具メーカーからの直接仕入れだったによるマージン削減。国内メーカーなら2~5割ほど安価になるし、輸入品なら半額になるケースも多い。 
  • 当時主流の「売れ残ったものは返品する」という委託販売方式から買い取り方式へ。
  • メーカー希望小売価格表示から実勢価格表示へ(同一品の業界最安値をアピール)。メーカーの反発を抑えるために勝久社長はお客の会員制度を導入。「会員限定で価格を示す」という苦肉の策。 
ここではこの分析が正しいとして、おそらくこの方式は国内メーカーから総スカンをくらい、成長のドライバになったのは輸入品だったのではないでしょうか。大塚家具の輸入品売上高構成比は成長期に合わせて急上昇します。


しかし、この順調な成長は2000年に入って急減速してしまいます。売上高は維持したものの、じわりじわりと営業利益を下げていき、リーマンショックの後に売り上げ高が急減したために、一気に利益が吹き飛んでしまいます。この背景には何があったのでしょうか?

まず、市場全体を見てみます。


これを見る限りにおいては、確かにリーマンショック後に最大2割程度落ち込んだものの、それだけでは大塚家具の急激な売り上げ減は説明できず、大塚家具は市場競争に負けてシェアを失っているのが売り上げ減の原因であると言えそうです。

家具メーカーで勢いのある企業といえば、ニトリとIKEAでしょう。この2社についてはググってみたら詳細に分析した論文(井村)が見つかりました。これによれば、ニトリとIKEA、どちらもSPAモデルで生産から販売まで一括管理し、デザインは本社で管理し、労務費の安い国で行うという合理的なサプライチェーンモデルを築いているということです。

こうした視点で見ると、大塚家具自身の分析として「まとめ買い需要の減少」をあげているのは、やや大丈夫かな、という気がします。
「家具市場は<住宅という箱の「備品」としてのインテリア>から<衣食とともに、「ライフスタイル」を構成する要素としてのインテリア>かつ<より自分らしいライフスタイルに向けて、少しずつ買い足すもの>に変遷」(大塚家具資料より)
僕なんかはシンプルに「デザイン性も悪く、価格も高い」と、商品力の問題として捉えたほうがよさそうに思います。なかなかそんなことは公式に自分たちの口では言えないことですが。

といっても、「今風デザインの家具の輸入を増やす」「ニトリやIKEAの真似をする」といった安易な方法論では勝つことはできないでしょう。ニトリにせよ、IKEAにしろ、デザイナーを育成し、海外で生産体制を整え、ロジスティクスを揃えるのはそう簡単にはいかなかったはずです。それこそ試行錯誤を繰り返し、10年単位の時間がかかって今の成功がある。

そういう意味では、勝久氏の他人のモノマネしてどうなるんだ。という、創業者社長の「原点」への強烈なこだわりも理解できるところです。

ちなみに、この間大塚家具は人員を1700名程度で維持しており、赤字になってもリストラを行わない、ある種の「良心的な企業」ということになるのでしょう。しかし、はっきりしていることは、現状のままでは現在の売り上げですら維持できず、従って雇用を維持することも、どこかの時点で不可能となります。

経営者は大変ですね。

2015年2月15日日曜日

プロパガンダ と曾野綾子氏のコラム

ネット界隈を騒がせているこの話題。

曽野氏コラムは「人種隔離容認」 南ア大使が産経に抗議
産経新聞社は14日、同紙の11日付朝刊に掲載された作家、曽野綾子氏のコラムについて、南アフリカのモハウ・ペコ駐日大使らから抗議を受けたことを明らかにした。アパルトヘイト(人種隔離)政策を容認する内容だとして、インターネット上で批判を浴び、海外メディアも報じていた。
朝日新聞 2015年2月14日23時00分

実は今読んでいる本に関連し、興味深いなと思ったので取り上げさせていただきました。



ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)
こちらはヒトラーが「演説家」として優れていた点はなんだったのか?ということを考察した本です。演説においてはヒトラーが「AではなくB」という対比法や「もしAならばB」という都合の良い仮定から結論を導く方式を多用したことを指摘しています。他にジェスチャーや発声法の訓練をした事実についても解説しています。

ヒトラーはかの「我が闘争」の中でこうも述べています。
  • プロパガンダが焦点を合わせるべきは専ら感情に他ならず、知能へは非常に限られた場合のみである
  • 大衆が親しめるものであること、そして対象とする者のなかでも最も程度の低い者の受容力に合わせること
  • 学術講義のような多面性を与えようとすることは誤り
  • プロパガンダとは大衆を絶え間なく自らの意のままにするためにある
  • 広範な大衆に向けたプロパガンダの根本原則とは、テーマ、考え、結論を絞り、執拗に繰り返せばよい
ヒトラーは大衆を徹底的に蔑視し、計算尽くでコントロールをしようし、そしてその計算通りに史上稀なる成功を収めたわけです。

実は、曾野綾子氏のコラムもこうした類似構造を指摘することができます。
「白人と違い黒人は大家族主義である」→「だから居住区を分離した」
「外国人は日本人と行動様式が違う」→「だから居住区を隔離すべき」

ここでは、まさに都合の良い仮定から結論を導き出すロジックが使用され、仮定においては白人はこういうものだ、黒人はこういうものだ、外国人とはこういうものだ、という単純化が行われております。

なお、上記の本ではこうしたプロパガンダ効果は政権掌握してまもなく消失し、大衆はヒトラーの演説に飽きたとされていますが、その頃は国家暴力を独占したナチスに逆らうことは実質的に不可能となっていたのでした。


ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書)

こちらはホロコースト=アウシュビッツというともすれば単純な図式に陥りがちな理解に対して、いかにナチスが組織的にジェノサイドを進めていったのか、またその過程でどのようなプレイヤーがどのような判断を下したのか、をまとめた本です。



読んでいるとひたすら暗くなる本ですが、人間が民族的偏見をもったときにどこまで残酷になれるのか、民族的偏見が広範に共有され、組織の内面規範となった時に何がおこるのか、ということを教えてくれます。


さて、個人的には「炎上」という現象はあまり好きではなく、曾野綾子氏の主張を「危険思想」として撲滅の対象とすべきである、という大合唱に同調するのは一抹のためらいがないとは言えないのですが…

しかしながら、こうした民族的な偏見の帰結には、大いなる悲劇が待っている可能性があることは声を大にして指摘したい。それは遠い過去の歴史ではなく、現在でも世界中で普遍的に起こっている事象なのです。そうした観点に基づいて、同氏の主張、および差別的思想や言説に対しては批難するものであり、「表現の自由」という錦の御旗を立てて、そうした可能性に目を向けようとしない産経新聞にもまた失望の意を禁じ得ません。

2015年2月14日土曜日

新聞の緩慢な衰退

こんな記事を見つけました。

中国新聞が4月で夕刊休刊 朝刊とセットの新媒体創刊
 中国新聞社(広島市)は12日、夕刊を4月末で休刊し、朝刊と同時に配達する日刊の新媒体「中国新聞SELECT(セレクト)」を5月1日、創刊すると発表した。同社夕刊は1924年から発行しているが、部数減により91年に及ぶ歴史に幕を下ろすことにした。
2015/02/12 20:43 【共同通信】

新聞が衰退メディアであることは誰の目にも明らかなわけではありまして、そうしたトレンドの中でこうした経営アクションがとられることは当然であるわけですが、常識的に考えてジャーナリズム機能の衰退は我々の社会にとって望ましいこととは言えません。


新聞が現代日本社会にとって必要不可欠なジャーナリズム機関なのか、ということはまた議論があるわけですが、ビッグプレイヤーであることは間違いないでしょう。

で、新聞社の現状がどんなものか気になって新聞協会のHPをみてみました。部数減はわかりきっていることなので割愛するとして、個人的にはそれが経営状況にどうインパクトを与えているかが気になるところです。

まず売上高ですが、リーマンショック後に広告収入が激減しているのが目を引きますね。一方で購読料収入はそこまで落ち込んでおらず、景気と連動しない底堅さを感じます。


売上が落ちているならば、当然コストカットをしなくてはならず、その代表が人件費となります。しかし、人員削減にも濃淡がありまして、なるべく記者の数は減らさずにその他部署の人員をこの10年間で1万人程度減らしていることがわかります。


現在から振り返れば、10年前の記者以外の従業員3万人って何やってたの?という疑問も湧くのですが、いずれにせよそうした人材は削減対象となってきました。コアファンクションを担う人員を優先しつつ、その他の人員を削減するのは至極当然のアクションと言えます。


個人的な印象としては購読料がある限りにおいて、簡単にはつぶれないのかな、という印象を受けました。もちろん人口減にはどう頑張っても抗えないわけでありまして、いずれは新聞社も生き残りのために地銀のように合併を選択するのでしょうか?

中央紙に吸収されるという論理的可能性もありますが、僕の印象では地方紙の中央紙に対するライバル意識はとても強く、そっちの方がもっとないような気がします。実際地銀もメガ銀行に吸収合併されるのは拒否して対等合併を選んでいるわけですし。

ただ、どちらかというと地方ごとの独占媒体である県紙よりも、代替メディアの存在する中央紙(朝日、毎日、読売、日経、産経)の方が経営はきついのかな、という気がしました。特に相対劣位にある毎日と産経。毎日は今年度上半期赤字ですし。


繰り返しになりますが、新聞の衰退自体はもはや避けられないと思いますので、経営者としてはいかに終わりを伸ばすか、という延命治療的なアクションが求められるのでしょう。ジャーナリズムの機能を残すために、経営の独立性を放棄する、という選択肢も検討せざるを得ないでしょう。

おそらく従業員から役員まで、組織内では大変に不人気で、従って困難な舵取りになるわけですが。

2015年2月12日木曜日

ベンチャー就職リスク考

最近個人的にはよく後輩の指導をするようになりまして、その中には早い段階で辞めて独立する後輩もおります。有名大学卒業生の就職人気では、それなりに新興企業ももてはやされているようですが、ある程度エスタブリッシュな企業に就職するメリットはやはり捨てがたいな、と改めて思った次第。


「大企業からベンチャーはいつでもいけるけど、ベンチャーから大企業には行けない」とか「企業の新卒教育は馬鹿にできない」という典型的な理由もあるのですが、ちょうど独立して二社目の会社を立ち上げた友人の社長さんが言っていた一言が印象的。

「ベンチャーしか経験のない人たちは発想のスケールが小さい」

僕は人事系の仕事もやっているので、社員の報酬設計、キャリアパス構築、育成、後継計画 etc.と携わります。社長から新入社員まで見ていると、「ビジネスにおける視座」のようなものは、どういったキャリアを歩んできたかに強く影響を受けると思われるのです。

一般的な意味での「価値観」というのは大学を出ることには固まっているかとは思いますが、「職業倫理」「お金の儲け方」に関する思考方法はやっぱり就職後に後天的に身につくものだと思います。だからこそ、ある程度銀行の人は銀行っぽくなり、商社の人は商社っぽくなる。

ちょうど僕の周りは10年選手なのですが、同世代と話しているとそうしたモノの見方はだいぶ固まってきている。よく言えば安定感がある、悪く言えば柔軟性が失われるといったところ。

だから、キャリア初期にどういう職に就くかというのは、単純なキャリアパス設計ということ以上に、その人のビジネス的な思考回路、課題の設定のフレームやソリューションの発想等々に強く影響を与えるように思います。

ベンチャーだけで働いていると、金額的にも、世の中に与えるインパクト的にも、小規模な仕事がメインにならざるを得ない。そういう仕事しかしていないと、どうしても特定領域の小幅な改善提案しかできなくなる「リスク」があるというのは、大いにありそうなことだと思います。

もちろん全ての人がそうだというわけではないですし、大企業でも「ちっちぇえな」という人はごまんといるので、確率の問題なんですけどね。

2015年2月4日水曜日

書評:労働時間の経済分析

労働時間の経済分析 超高齢社会の働き方を展望する

日経・経済図書文化賞を受賞したということで買っておいて年末から「積ん読」になっていたのですが、面白いデータ分析がたくさんはいっており、大変興味深かったです。

このうちいくつかご紹介。


1980年代は中小企業の方が大企業より労働時間が長かったが、2000年代に入ってから両者の差はほとんどない。日本の平均労働時間は低下をしてきたが、これは短時間労働者の増加によるもので、フルタイム雇用者の労働時間はほとんど変わっていない。

残業代なし管理職と、残業代あり被管理職の報酬や労働時間を比較したところ、平時は労働時間や時間あたり賃金の差はほとんどない。ただし、景気後退期には管理職の労働時間が長くなり、時間単価が低下する可能性が指摘できる。

労働時間に関する弾性値は極めて低く、賃金が高くもらえるのであればより長く働こう、低いのであれば短縮しようというメカニズムはほとんど働かない。

日本人のフルタイム雇用者の労働時間は国際比較においても長く、「より減らしたい」と考えている労働者の割合も高いため、「働きすぎ」と言っても差し支えない。一方で、日本人はそもそも「希望する労働時間」が長い。特に、長時間労働が「評価」される企業では希望労働時間が長い。

ただし、日本人も欧米赴任で周囲の環境が変われば、労働時間は顕著に短くなり生産性も上昇する。したがって、国民性などではなく長時間労働は環境の問題と考えられる。(赴任者曰く 日本では資料の作成や上司に対する気配りが過大「社内会議資料のフォントや改行の長さなどの調整は付加価値につながらないのに上司へのサービスとして手厚く行う風習があった」)

長時間労働は、労働市場特性も影響する。勤続年数が長い企業は長時間残業となる傾向がある。企業の固定的投下資本が大きく、人員増減によって需要変動に対応することができないため、あらかじめ採用人数を絞り、残業させておく必要があるからである。


昨今「ブラック企業」「ホワイトカラーエグゼンプション」等のトピックスにより労働時間と報酬、従業員の健康に関する関心が高まっていますが、上記のデータを見る限り、賛成反対双方が不毛な議論をしているようにも思えてきます。

例えばホワイトカラーエグゼンプションにしても、労働側の「残業代なしタダ働き制度=長時間残業常態化」や、使用者側の「効率的な働き方の浸透=生産性向上」のどちらもあまり起こりそうにない話だと予想されます。

著者が言うように、事実の分析に基づいた、生産的な議論をしたいものです。

2015年1月18日日曜日

書評:戦略不全の因果




戦略不全の因果―1013社の明暗はどこで分かれたのか

三品先生の本です。僕はこの人の本好きなんですよね。

この本の「元ネタ」は日本の上場会社の1013社の業績を網羅的に調べたこと。これによって経営本にありがちな「目立つ事例だけにフォーカスする」ということが避けられ、よりバイアスのかかっていない一般的な結論が得られるとしています。

内容を簡単にご紹介しますと…

1  成長性は「事業立地」で決まる
事業立地(≒業種)が肥沃であることが利益成長の必要条件である。不毛な立地では例外なく利益成長できない(例えば繊維業)。別の言葉では「誰がやっても失敗することが運命付けられている」。もちろん事業立地は十分条件ではなくて、肥沃な立地でも倒産していった企業は存在する。


2 「転地」の必要性
寿命の終えた事業立地から別の事業立地へ「転地」することが、経営者の「戦略」である。しかし、これは言うは易く行うは難し。第一に顧客や取引先へのオーバーコミットメント。第二に新立地への知識不足。第三に投資の不確実性(及び既存投資へのサンクコスト)。が存在する。


3 経営者の特性
転地は合議によって為しうるものではなく、一人経営者の決断に依存する。転地に成功する経営者はその困難さからして、任期の長さが必要条件となる。現在の日本企業の経営者は内部昇格を基本とし、一般社員との差異が小さく、現在の事業立地以外の知見が乏しい上に、任期も平均5〜6年と短い。このため転地に成功することは稀である。


まぁ、しかし、こうしてバッサバッサやられてしまうと、経営者になんてなれない不毛立地企業の一般社員はどうすりゃいーの、という気もしないではないですが。三品先生に言わせれば「転職できる年齢を過ぎていたならば、運が悪かったと諦めるしかない」ということなんでしょうね。

2015年1月16日金曜日

ホワイトカラーエグゼプション考

時事通信で以下の記事が出てました。
年収1075万円以上で導入=新労働時間制の素案提示 
 厚生労働省は16日、労働政策審議会(厚労相の諮問機関)分科会を開き、働いた時間ではなく成果に応じ賃金を支払う新しい労働時間制度「ホワイトカラー・エグゼンプション」について、年収1075万円以上の専門職を対象に導入する制度改革素案を示した。
管理職じゃなくて年収1075万円以上、かつ専門職となると対象は相当限られると思うんですよね。特に為替ディーラーなんてすでに結構な人たちが「年俸制」なんじゃないでしょうか?日本においては法的な根拠がない「年俸制」に法律の裏付けを与えるという現状追認的な性格が強いかと。

もっとも、労働組合などは「蟻の一穴論理」で強固に反対しているわけですが。派遣労働規制をみろ、規制業種はなし崩しに拡大した。いずれ年収要件も下がり、対象職種も広がるぞ、ということですね。

ただ、同制度で先行している欧米においても1000万円程度の年収要件は存在するわけでして、おそらくそう簡単に基準金額を下げるというわけにもいかないでしょう。利害関係者が多くなりすぎて、政治的にもたないかと。労組の懸念通り、対象職種は拡大するでしょう。


それはそれとして、実際に企業の人事戦略や制度運用に関わった身としては、どっちにしろ中期的には社会的インパクトないだろうな、と予想します。

本制度は当然のことながら人件費を引き下げたい経済界の要望に従って始まっているわけですが、まず既存社員の年収なんて法的にも、労使関係上も、さらに人材獲得競争上もそんな簡単に下げられないわけでして。制度が導入されても微妙に下がる程度ではないでしょうか。

そもそも、本制度は何を目的としているのでしょうか。記事中は「メリハリのきいた柔軟な働き方を広げ、国際的にみて低い労働生産性を引き上げる」ということですが、大企業のホワイトカラーの年収をちょいと引き下げたくらいでそれが達成されるのでしょうか。

国全体の労働生産性を上げるためには、大企業に比較して生産性が低い中小企業を政策ターゲットに含める必要があります。日本の就業者の約6〜7割は中小企業に勤めているわけですし(PDF)。企業そのものの新陳代謝(ストレートな物言いだと廃業)を促進し、解雇ルールを見直して労働市場全体の流動性を高める必要があるでしょう。

本制度ではそうした効果は見込めないでしょう。「岩盤規制と戦ってますよ」という政府のパフォーマンス感が強いですね。


長期的にみてどんなインパクトがあるのか。長期的なトレンドとして労働分配率は微減しているというのは事実なので、これもやはりテクノロジーの進歩に伴って人間の「労働の付加価値が低下している」ということの反射的効果なのかもしれませんね。