2015年2月15日日曜日

プロパガンダ と曾野綾子氏のコラム

ネット界隈を騒がせているこの話題。

曽野氏コラムは「人種隔離容認」 南ア大使が産経に抗議
産経新聞社は14日、同紙の11日付朝刊に掲載された作家、曽野綾子氏のコラムについて、南アフリカのモハウ・ペコ駐日大使らから抗議を受けたことを明らかにした。アパルトヘイト(人種隔離)政策を容認する内容だとして、インターネット上で批判を浴び、海外メディアも報じていた。
朝日新聞 2015年2月14日23時00分

実は今読んでいる本に関連し、興味深いなと思ったので取り上げさせていただきました。



ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)
こちらはヒトラーが「演説家」として優れていた点はなんだったのか?ということを考察した本です。演説においてはヒトラーが「AではなくB」という対比法や「もしAならばB」という都合の良い仮定から結論を導く方式を多用したことを指摘しています。他にジェスチャーや発声法の訓練をした事実についても解説しています。

ヒトラーはかの「我が闘争」の中でこうも述べています。
  • プロパガンダが焦点を合わせるべきは専ら感情に他ならず、知能へは非常に限られた場合のみである
  • 大衆が親しめるものであること、そして対象とする者のなかでも最も程度の低い者の受容力に合わせること
  • 学術講義のような多面性を与えようとすることは誤り
  • プロパガンダとは大衆を絶え間なく自らの意のままにするためにある
  • 広範な大衆に向けたプロパガンダの根本原則とは、テーマ、考え、結論を絞り、執拗に繰り返せばよい
ヒトラーは大衆を徹底的に蔑視し、計算尽くでコントロールをしようし、そしてその計算通りに史上稀なる成功を収めたわけです。

実は、曾野綾子氏のコラムもこうした類似構造を指摘することができます。
「白人と違い黒人は大家族主義である」→「だから居住区を分離した」
「外国人は日本人と行動様式が違う」→「だから居住区を隔離すべき」

ここでは、まさに都合の良い仮定から結論を導き出すロジックが使用され、仮定においては白人はこういうものだ、黒人はこういうものだ、外国人とはこういうものだ、という単純化が行われております。

なお、上記の本ではこうしたプロパガンダ効果は政権掌握してまもなく消失し、大衆はヒトラーの演説に飽きたとされていますが、その頃は国家暴力を独占したナチスに逆らうことは実質的に不可能となっていたのでした。


ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書)

こちらはホロコースト=アウシュビッツというともすれば単純な図式に陥りがちな理解に対して、いかにナチスが組織的にジェノサイドを進めていったのか、またその過程でどのようなプレイヤーがどのような判断を下したのか、をまとめた本です。



読んでいるとひたすら暗くなる本ですが、人間が民族的偏見をもったときにどこまで残酷になれるのか、民族的偏見が広範に共有され、組織の内面規範となった時に何がおこるのか、ということを教えてくれます。


さて、個人的には「炎上」という現象はあまり好きではなく、曾野綾子氏の主張を「危険思想」として撲滅の対象とすべきである、という大合唱に同調するのは一抹のためらいがないとは言えないのですが…

しかしながら、こうした民族的な偏見の帰結には、大いなる悲劇が待っている可能性があることは声を大にして指摘したい。それは遠い過去の歴史ではなく、現在でも世界中で普遍的に起こっている事象なのです。そうした観点に基づいて、同氏の主張、および差別的思想や言説に対しては批難するものであり、「表現の自由」という錦の御旗を立てて、そうした可能性に目を向けようとしない産経新聞にもまた失望の意を禁じ得ません。

2015年2月14日土曜日

新聞の緩慢な衰退

こんな記事を見つけました。

中国新聞が4月で夕刊休刊 朝刊とセットの新媒体創刊
 中国新聞社(広島市)は12日、夕刊を4月末で休刊し、朝刊と同時に配達する日刊の新媒体「中国新聞SELECT(セレクト)」を5月1日、創刊すると発表した。同社夕刊は1924年から発行しているが、部数減により91年に及ぶ歴史に幕を下ろすことにした。
2015/02/12 20:43 【共同通信】

新聞が衰退メディアであることは誰の目にも明らかなわけではありまして、そうしたトレンドの中でこうした経営アクションがとられることは当然であるわけですが、常識的に考えてジャーナリズム機能の衰退は我々の社会にとって望ましいこととは言えません。


新聞が現代日本社会にとって必要不可欠なジャーナリズム機関なのか、ということはまた議論があるわけですが、ビッグプレイヤーであることは間違いないでしょう。

で、新聞社の現状がどんなものか気になって新聞協会のHPをみてみました。部数減はわかりきっていることなので割愛するとして、個人的にはそれが経営状況にどうインパクトを与えているかが気になるところです。

まず売上高ですが、リーマンショック後に広告収入が激減しているのが目を引きますね。一方で購読料収入はそこまで落ち込んでおらず、景気と連動しない底堅さを感じます。


売上が落ちているならば、当然コストカットをしなくてはならず、その代表が人件費となります。しかし、人員削減にも濃淡がありまして、なるべく記者の数は減らさずにその他部署の人員をこの10年間で1万人程度減らしていることがわかります。


現在から振り返れば、10年前の記者以外の従業員3万人って何やってたの?という疑問も湧くのですが、いずれにせよそうした人材は削減対象となってきました。コアファンクションを担う人員を優先しつつ、その他の人員を削減するのは至極当然のアクションと言えます。


個人的な印象としては購読料がある限りにおいて、簡単にはつぶれないのかな、という印象を受けました。もちろん人口減にはどう頑張っても抗えないわけでありまして、いずれは新聞社も生き残りのために地銀のように合併を選択するのでしょうか?

中央紙に吸収されるという論理的可能性もありますが、僕の印象では地方紙の中央紙に対するライバル意識はとても強く、そっちの方がもっとないような気がします。実際地銀もメガ銀行に吸収合併されるのは拒否して対等合併を選んでいるわけですし。

ただ、どちらかというと地方ごとの独占媒体である県紙よりも、代替メディアの存在する中央紙(朝日、毎日、読売、日経、産経)の方が経営はきついのかな、という気がしました。特に相対劣位にある毎日と産経。毎日は今年度上半期赤字ですし。


繰り返しになりますが、新聞の衰退自体はもはや避けられないと思いますので、経営者としてはいかに終わりを伸ばすか、という延命治療的なアクションが求められるのでしょう。ジャーナリズムの機能を残すために、経営の独立性を放棄する、という選択肢も検討せざるを得ないでしょう。

おそらく従業員から役員まで、組織内では大変に不人気で、従って困難な舵取りになるわけですが。

2015年2月12日木曜日

ベンチャー就職リスク考

最近個人的にはよく後輩の指導をするようになりまして、その中には早い段階で辞めて独立する後輩もおります。有名大学卒業生の就職人気では、それなりに新興企業ももてはやされているようですが、ある程度エスタブリッシュな企業に就職するメリットはやはり捨てがたいな、と改めて思った次第。


「大企業からベンチャーはいつでもいけるけど、ベンチャーから大企業には行けない」とか「企業の新卒教育は馬鹿にできない」という典型的な理由もあるのですが、ちょうど独立して二社目の会社を立ち上げた友人の社長さんが言っていた一言が印象的。

「ベンチャーしか経験のない人たちは発想のスケールが小さい」

僕は人事系の仕事もやっているので、社員の報酬設計、キャリアパス構築、育成、後継計画 etc.と携わります。社長から新入社員まで見ていると、「ビジネスにおける視座」のようなものは、どういったキャリアを歩んできたかに強く影響を受けると思われるのです。

一般的な意味での「価値観」というのは大学を出ることには固まっているかとは思いますが、「職業倫理」「お金の儲け方」に関する思考方法はやっぱり就職後に後天的に身につくものだと思います。だからこそ、ある程度銀行の人は銀行っぽくなり、商社の人は商社っぽくなる。

ちょうど僕の周りは10年選手なのですが、同世代と話しているとそうしたモノの見方はだいぶ固まってきている。よく言えば安定感がある、悪く言えば柔軟性が失われるといったところ。

だから、キャリア初期にどういう職に就くかというのは、単純なキャリアパス設計ということ以上に、その人のビジネス的な思考回路、課題の設定のフレームやソリューションの発想等々に強く影響を与えるように思います。

ベンチャーだけで働いていると、金額的にも、世の中に与えるインパクト的にも、小規模な仕事がメインにならざるを得ない。そういう仕事しかしていないと、どうしても特定領域の小幅な改善提案しかできなくなる「リスク」があるというのは、大いにありそうなことだと思います。

もちろん全ての人がそうだというわけではないですし、大企業でも「ちっちぇえな」という人はごまんといるので、確率の問題なんですけどね。

2015年2月4日水曜日

書評:労働時間の経済分析

労働時間の経済分析 超高齢社会の働き方を展望する

日経・経済図書文化賞を受賞したということで買っておいて年末から「積ん読」になっていたのですが、面白いデータ分析がたくさんはいっており、大変興味深かったです。

このうちいくつかご紹介。


1980年代は中小企業の方が大企業より労働時間が長かったが、2000年代に入ってから両者の差はほとんどない。日本の平均労働時間は低下をしてきたが、これは短時間労働者の増加によるもので、フルタイム雇用者の労働時間はほとんど変わっていない。

残業代なし管理職と、残業代あり被管理職の報酬や労働時間を比較したところ、平時は労働時間や時間あたり賃金の差はほとんどない。ただし、景気後退期には管理職の労働時間が長くなり、時間単価が低下する可能性が指摘できる。

労働時間に関する弾性値は極めて低く、賃金が高くもらえるのであればより長く働こう、低いのであれば短縮しようというメカニズムはほとんど働かない。

日本人のフルタイム雇用者の労働時間は国際比較においても長く、「より減らしたい」と考えている労働者の割合も高いため、「働きすぎ」と言っても差し支えない。一方で、日本人はそもそも「希望する労働時間」が長い。特に、長時間労働が「評価」される企業では希望労働時間が長い。

ただし、日本人も欧米赴任で周囲の環境が変われば、労働時間は顕著に短くなり生産性も上昇する。したがって、国民性などではなく長時間労働は環境の問題と考えられる。(赴任者曰く 日本では資料の作成や上司に対する気配りが過大「社内会議資料のフォントや改行の長さなどの調整は付加価値につながらないのに上司へのサービスとして手厚く行う風習があった」)

長時間労働は、労働市場特性も影響する。勤続年数が長い企業は長時間残業となる傾向がある。企業の固定的投下資本が大きく、人員増減によって需要変動に対応することができないため、あらかじめ採用人数を絞り、残業させておく必要があるからである。


昨今「ブラック企業」「ホワイトカラーエグゼンプション」等のトピックスにより労働時間と報酬、従業員の健康に関する関心が高まっていますが、上記のデータを見る限り、賛成反対双方が不毛な議論をしているようにも思えてきます。

例えばホワイトカラーエグゼンプションにしても、労働側の「残業代なしタダ働き制度=長時間残業常態化」や、使用者側の「効率的な働き方の浸透=生産性向上」のどちらもあまり起こりそうにない話だと予想されます。

著者が言うように、事実の分析に基づいた、生産的な議論をしたいものです。

2015年1月18日日曜日

書評:戦略不全の因果




戦略不全の因果―1013社の明暗はどこで分かれたのか

三品先生の本です。僕はこの人の本好きなんですよね。

この本の「元ネタ」は日本の上場会社の1013社の業績を網羅的に調べたこと。これによって経営本にありがちな「目立つ事例だけにフォーカスする」ということが避けられ、よりバイアスのかかっていない一般的な結論が得られるとしています。

内容を簡単にご紹介しますと…

1  成長性は「事業立地」で決まる
事業立地(≒業種)が肥沃であることが利益成長の必要条件である。不毛な立地では例外なく利益成長できない(例えば繊維業)。別の言葉では「誰がやっても失敗することが運命付けられている」。もちろん事業立地は十分条件ではなくて、肥沃な立地でも倒産していった企業は存在する。


2 「転地」の必要性
寿命の終えた事業立地から別の事業立地へ「転地」することが、経営者の「戦略」である。しかし、これは言うは易く行うは難し。第一に顧客や取引先へのオーバーコミットメント。第二に新立地への知識不足。第三に投資の不確実性(及び既存投資へのサンクコスト)。が存在する。


3 経営者の特性
転地は合議によって為しうるものではなく、一人経営者の決断に依存する。転地に成功する経営者はその困難さからして、任期の長さが必要条件となる。現在の日本企業の経営者は内部昇格を基本とし、一般社員との差異が小さく、現在の事業立地以外の知見が乏しい上に、任期も平均5〜6年と短い。このため転地に成功することは稀である。


まぁ、しかし、こうしてバッサバッサやられてしまうと、経営者になんてなれない不毛立地企業の一般社員はどうすりゃいーの、という気もしないではないですが。三品先生に言わせれば「転職できる年齢を過ぎていたならば、運が悪かったと諦めるしかない」ということなんでしょうね。

2015年1月16日金曜日

ホワイトカラーエグゼプション考

時事通信で以下の記事が出てました。
年収1075万円以上で導入=新労働時間制の素案提示 
 厚生労働省は16日、労働政策審議会(厚労相の諮問機関)分科会を開き、働いた時間ではなく成果に応じ賃金を支払う新しい労働時間制度「ホワイトカラー・エグゼンプション」について、年収1075万円以上の専門職を対象に導入する制度改革素案を示した。
管理職じゃなくて年収1075万円以上、かつ専門職となると対象は相当限られると思うんですよね。特に為替ディーラーなんてすでに結構な人たちが「年俸制」なんじゃないでしょうか?日本においては法的な根拠がない「年俸制」に法律の裏付けを与えるという現状追認的な性格が強いかと。

もっとも、労働組合などは「蟻の一穴論理」で強固に反対しているわけですが。派遣労働規制をみろ、規制業種はなし崩しに拡大した。いずれ年収要件も下がり、対象職種も広がるぞ、ということですね。

ただ、同制度で先行している欧米においても1000万円程度の年収要件は存在するわけでして、おそらくそう簡単に基準金額を下げるというわけにもいかないでしょう。利害関係者が多くなりすぎて、政治的にもたないかと。労組の懸念通り、対象職種は拡大するでしょう。


それはそれとして、実際に企業の人事戦略や制度運用に関わった身としては、どっちにしろ中期的には社会的インパクトないだろうな、と予想します。

本制度は当然のことながら人件費を引き下げたい経済界の要望に従って始まっているわけですが、まず既存社員の年収なんて法的にも、労使関係上も、さらに人材獲得競争上もそんな簡単に下げられないわけでして。制度が導入されても微妙に下がる程度ではないでしょうか。

そもそも、本制度は何を目的としているのでしょうか。記事中は「メリハリのきいた柔軟な働き方を広げ、国際的にみて低い労働生産性を引き上げる」ということですが、大企業のホワイトカラーの年収をちょいと引き下げたくらいでそれが達成されるのでしょうか。

国全体の労働生産性を上げるためには、大企業に比較して生産性が低い中小企業を政策ターゲットに含める必要があります。日本の就業者の約6〜7割は中小企業に勤めているわけですし(PDF)。企業そのものの新陳代謝(ストレートな物言いだと廃業)を促進し、解雇ルールを見直して労働市場全体の流動性を高める必要があるでしょう。

本制度ではそうした効果は見込めないでしょう。「岩盤規制と戦ってますよ」という政府のパフォーマンス感が強いですね。


長期的にみてどんなインパクトがあるのか。長期的なトレンドとして労働分配率は微減しているというのは事実なので、これもやはりテクノロジーの進歩に伴って人間の「労働の付加価値が低下している」ということの反射的効果なのかもしれませんね。

2014年10月31日金曜日

書評:殺人犯はそこにいる


殺人犯はそこにいる: 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件

これは今年読んだ中ではベストかも知れません。冤罪で有名となった「足利事件」を追いかけた記者の本ですね。いかに公権力が都合の悪い事実を隠蔽しようとするのか、一市民はその前にいかに無力なのか…、そうしたことを考えさせられます。憤りとともに、なんともいえない薄ら寒さを感じます。

周知の通り、検挙された場合の有罪率は日本では99%です。つまり、無実の人であっても、検挙されたらまず助からないとも言えます。ある日突然警察が踏み込んで「オマエが犯人だ」と言われたら。菅家さんに実際におこったのはそういうことです。

著者本人は冤罪に関心があるわけではく、「真実を知りたい」というのが動機だと述べていますが。やはりこの本の主たるテーマは、ジャーナリズムの力によって冤罪を暴いたことでしょう。

ちなみに、日弁連のHPに再審請求が認められ、冤罪が判明した一覧(PDF)があります。結構あるものですね。